ぱぱの背中

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『ぱぱの背中』の背中

父の思い出

良い思い出を探そうとしても、見つからないのが悔しいところです。

彼が自分の父の後を継ぎ鞄職人になったのも、別に好きでなったわけでもなく、自分の父がリウマチでほぼ寝たきり状態になってしまったから。高校は夜学に通いながら両親と二人の弟を養う生活でした。次弟も同じ道に入り、末弟だけは大学に行きサラリーマンに。

結婚をして二人の息子に恵まれるものの、総勢八人の家族となっている状態では、さほど楽な暮らしをしていたとも思われません。それでも、古かった家を増改築し、その二階をアパートとして人に貸すこともでき、それなりに鼻が高かったのでしょう。

そんな状態になっても、実は自分の親に全く逆らえないでいて、両親は息子の稼いだ金で年に何回か旅行に行き、彼は妻と二人の息子を遊びに連れて行くことすらできませんでした。

徐々に酒の量も増え、酔いつぶれることもしばしば、気に食わなければ用意された家族全員の夕飯ごとテーブルをひっくり返し、手作業で鍛えた手で子供を殴り、止めに入る自分の母と妻にも暴力を振るうシーンは、星一徹がモノスゴクいい父親に見えてしまうほどでした。

長男が私立高校に進学した後、次男も高校を受験する時が来ました。長男で懲りていたのでしょう(学費が東京都ベスト10に入るほど高かったのです)、次男には「都立以外には行かせない」と迫り、少なくとも学歴的にはあまりいい状況にはならないことになりました。

やがて長男が大学に進学し、人並みに冬にスキーに行くたびに、妻の顔が大きく腫れあがるようになりました。親の金で生活して、のうのうとスキーに行く長男が許せなかったものの、その怒りの矛先は長男には向かわず、いつもそばにいる自分の妻に向いたのでした。

長男が大学生のころは、有名デザイナーズブランドのおかげで仕事の注文が激増しており、そこそこの収入となっていました。ただ、革鞄の製作は想像以上に手先の内面も表面も傷つけるもので、最終的には痛さを紛らわすことを口実に、酒の量が増えて行くのでした。

そんな生活を続けて、長男が社会人になったころには、酔いつぶれない日はないような日々。基本的に悪い酒で、酔って家族のことを悪く罵り、暴れ、潰れる。柱にしがみついて嫌がるのを、妻と息子たちが無理やり引きはがして病院に連れて行くことも多くなりました。

長男が27歳の時、上のような状況で、これまで従順だった長男がついにブチ切れるときが来ました。長男は涙を流しながら自分の父親を殴ったのです。その後すぐに長男は独立し、距離を置くことになりました。

4年後、長男が結婚することになります。長男の住まいから結婚式場まで、一本の電車で行けるのですが、その途中に実家もあり、駅で待ち合わせて結婚式場に貸衣装を選びに行くことに。待ち合わせの駅で長男が愕然としたのは、自分の父親の想像以上のアルコール漬けの状態です。アルコールが服を着ているようにしか見えなかったのです。

長男が後から聞いた話では、朝から酒を買いに行ってお店の人(兄貴分みたいな人だったのですが)に怒られたりなど、その当時の話にロクなものはありません。

その後改心して酒を飲まなくなった、という話でした。もうボロボロな状態ではないと妻が長男に話して聞かせ、長男もそれをそれなりに信じていたのです。

隣人が急死したと長男に連絡が入りました。お酒を飲めない彼の代わりにお通夜に来いと。長男が行くと、彼は、「行っても飲まないから大丈夫だ」と胸を張ります。ですが…通夜の前にこっそりと飲んでいました。ふだんあまり酒を飲まない長男には、飲んでいる人の息かそうでないかは、すぐにわかります。「行っても飲まないから大丈夫だ」から通夜に出かける間に、ちょっと姿を消したすきに飲んだと、その夜白状したそうです。

彼が完全に酒を断ったのは、孫が生まれることがきっかけでした。断酒会に通い、薬物中毒に強い精神科医に通い、「俺はあそこまでは行ってない。まだ戻れる。」と奇跡的に完全に酒を断つことができたのでした。一度その世界に入った人は、酒を止めても一時的なもので、すぐに飲み始めてしまう例が多いことは、断酒会に通っていた人で顔を出さなくなる人が多いことからもわかります。彼がおそらく完全に、その後酒を飲まなくても大丈夫な状態に、自分を持ち直すことができたのは、家族中の大きな喜びでした。

が、体も、頭も、この時すでに相当痛めつけられている状態だったのだと思われます。

その後彼も妻も、元の職業からは離れたものの、シルバー向けの仕事をしながら幸せな暮らしを送ることになります。

やがて次男が結婚するということになり、彼は間違いを犯します。

次男から長男に連絡が入りました。「親父が商品先物で負けているらしい」と。長男の結婚式に一銭も出さず、長男のマンションのローンの支援もしなかった彼がたいした金を持っているとは思えなかったのですが、兄弟は二人して確認することに。長男が実家に着いた時には、二男の部屋にすべてと思われる取引結果の手紙が集められていました。

莫大な明細を見ながら、想像以上に金を突っ込んでいることに気付きます。最終的には税金申告用の通知書を見て二人が愕然とするのですが、半年で1200万円(そんなに持ってたら金貸せ!)、全預貯金を負けていました。私立に行くなら次男の学費を払わないと言い、長男の学費も気に食わなければ払わないでまでして貯めたお金だったのに。

次男が結婚するのに、ぼろい家ではかわいそうだと、改築費用を捻出しようとしたらしかったのです。

孫が9歳になる今年、小さな異変が起きました。診断結果は脳梗塞。しかも以前に一度軽い脳梗塞になっていて、今回が二回目だとのこと。

世間ではオシム監督の脳梗塞が話題になっていたころです。長男は、すぐに治るものだと信じていました。

ところが、通院・リハビリの甲斐も無く、急速に動けなく、しゃべれなくなっていくのです。介護認定も得ることができ、トイレや風呂のバリアフリー化を介護保険で賄うことができたのに、彼がそれを使うことは、結果としてほとんどありませんでした。

それでも何とかなっていたのが、お盆のころを境に急変します。激しい痙攣を起して、病院に担ぎ込んだと。実家を離れている長男の元に連絡が入ります。もう長くないと。

自分の親は軽い脳梗塞で、脳梗塞は治るものだと信じている長男に、「若年性アルツハイマー・パーキンソン病・クロイツフェルトヤコブ病」などの病名が、可能性として伝えられます。脳梗塞では、こんな状態にはならないと医者が頭を抱えるほど、実際のところ病状は深刻だったようです。脳の委縮が早く、回復の見込みは少なかったのでした。

と、第三者のように書いてみたのですが…先ほど弟から連絡があり、息を引き取ったと(年賀状出しちゃったのに)。

頑固で、見栄っ張りで、小心者。昔の江戸っ子に多かった性質だと聞きますが、そんな父親でした。

正直、良い思い出はないのです。

ここでは書き足らないくらい、思い出そうと思えば不満ばかり。

でも、書いてあげた方がいいんだろうなぁと。

ずっと抑圧され続けて、そこからようやく解放された10年弱。この10年が一生のうちで最も幸せな10年だったと、そう信じているのです。

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